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医療法人 浩然会 内村病院-精神科・心療内科

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PSW平成見聞録~第1章~

2020.06.29

西諸地域精神保健福祉協議会だより「ときめき」で、“今年の「こすもす祭」は「第20回全国障害者芸術・文化祭みやざき大会」との合同開催として開催され、精神障がい者だけでなく、知的・身体障がい者の方々も一緒に参加できる内容を企画します”、との記事が載っていました。(残念ながら新型コロナウイルスの影響で延期になりましたが…)

「そんな時代になったか…」と感慨深く、“ときめいた”ので、今回は「こすもす祭」開催に至るまでの思い出を書きたいと思います。

 

昭和63年7月より精神障がい者の「人権擁護」「社会復帰」の2本柱を掲げた「精神保健福祉法」が施行され、長期入院者の社会復帰促進が動き出しました…が、現実はそんなに簡単なものではありませんでした。一番の壁は根強く残る精神障がい者に対する「社会的偏見」であり、もう一つは社会資源の圧倒的な不足でした。

当時は、精神障がい者は「医療」の対象者であり、「福祉」の対象ではありませんでした。

そのため、精神障がい者が病院を退院した後に使える福祉サービスはほとんどなく、「精神保健福祉法」の中で初めて「社会復帰施設」が制定されましたが、それらの設立も病院の自助努力であり、また新たに建てようとしても精神障がい者に対する偏見から、地域によっては建設を反対されたり等もあり、なかなか数は増えず地域格差が著明でした。

 

そのような状況のもと、「社会復帰促進」の担い手として期待された職種が、PSW(精神科ソーシャルワーカー)です。

当時は、医療ソーシャルワーカーを専任で雇用している病院は少なかったのですが、精神科病院は法改正を機にほとんどの病院に専従で配属されるようになりました。それでも1病院に1~2名という状況でした。

病院内で「ソーシャルワーカー」としての業務も確立されておらず、それぞれが手探りで業務を行っていました。変わりゆく社会情勢下で、目まぐるしく制度が代わるのに、今のようにインターネットもなく、専門書を取り扱っている書店もなく、情報を収集するのが難しい時代でした。そのような中、自分だけで多種多様な問題を抱える処遇困難事例に対応するのは至難の業でした。

同じように悩みを持つソーシャルワーカーは多く、昭和39年4月に発足した「宮崎県医療社会事業協会」(現:宮崎県医療ソーシャルワーカー協会)に属し、そこでの勉強会や情報・意見交換、先輩ソーシャルワーカーからの助言や指導、同職種間の絆が唯一の拠り所になっていました。

私が就職した頃は、協会員は約45名位だったと思いますが、医療・保健・福祉に属する県内各地の協会員すべてと顔の見える関係づくりができていました。なので職場に自分しかソーシャルワーカーがいなくても、困ったときに相談、支援、連携がなされ、一人で問題を抱えることなく、研鑽を重ねることができていました。今でこそ「多職種連携」「顔の見える関係づくり」の必要性がうたわれていますが、我々ソーシャルワーカーの先輩方は、すでにこの時点でそのノウハウを構築しており、それを引き継いだ私たちも「連携づくり」を得意とする職種であると自負しています。

 

そのような状況の中、宮崎市内の精神科病院の大先輩(師匠)の下で修業を積み、平成3年に郷里である小林の精神科病院へ転職したのですが、当時の西諸の地域性は、精神障がい者への偏見も強く、まだまだ閉鎖的でした。

ただ法改正とともに病院の開放化が進み、長期入院患者さんが外へ出る機会は増えてきつつありました。それでも、まだまだ病院中心の生活が続いている状態で、病院間や関係機関との交流もほとんどない状態でした。しかし、先程書いたようにソーシャルワーカー間の交流は行っていました。

私が就職した病院は初のPSW雇用であったため院内に相談できる人もなく、困ったことがあった時は、西諸第1号PSWであるK師匠(当院初代PSW)の下に相談に通いました。そこへ3代目PSWが加わり、顔を合わせると「西諸をどげんかせんといかん」という話題になっていきました。

・・・それが、「こすもす祭」の前身となる「第1回 小林保健所管内精神障害者スポーツ交流会」開催へつながっていくのですが…、長くなったので、続きは次回へ(^o^)/